今年(2024年)も満開の桜を見ていたら、心のどかに見られなかった2020年春の桜を思い出したので、それぐらいの時期のことを振り返ってみたいと思う。あの頃、どんなものを見て、何を考えて暮らしていたのか、忘れ去る前にただ書き残しておきたいだけです。


はじめての緊急事態宣言が出る1週間前の東京は桜が満開だった。僕は4月から大学3年生になるところだったけれども、大学の講義開始は5月まで延期になって、キャンパスも封鎖された。世の中じゅうが慌ただしくあらゆる対策に追われているのを横目に、無為に近所の桜並木を散歩できるくらいに僕はヒマだった。


田舎から上京した学生のための男子寮に住んでいたのだけれど、寮生の8割くらいは実家へ帰ってしまった。残り2割の、実家から「帰ってくるな」と言われたか、帰らないことを選んだ人たちと過ごした。この頃から2年ほど実家には帰らなかった。


相変わらずマスクはどの店でも品薄で、僕の場合はアルバイト先からの支給に頼っていた。お役所から布マスクも届いたけれど、結局使わなかった。寮の友人は、「濃厚接触」って、なんか語感がイヤラしいよね、と言いながら廊下に自作のポスターを貼っていた。


それまでしょっちゅう外食をしていたのだけれど、レストランも飲み屋も軒並み休業状態だったので、自炊することにした。当時は地元のホタルイカが異常に安くて(豊漁だったのに、料亭・レストランが閉まって行き場がなくなっていた)、ワケギも茹でて、よく食べていた。牛乳も余っており(休校で学校給食がなくなったため)、ほぼ毎晩、芋焼酎や泡盛やカルーアを牛乳で割って晩酌していた。

日に日に街からは人通りが消えていった。毎朝、駅で満員電車に人を詰め込むアルバイトをしていたのだけれど、仕事の意義が完全に消滅した、と断言できるくらいにお客さんが減った。解雇を覚悟していたら、駅長が気を遣ってくださり、諸々落ち着くまで、ホームに立つ代わりに駅構内の掃き掃除してくれれば良い、ということになった。


ヒマと体力を持て余していたので、週3回、深夜のスーパーマーケットでも働くことにした。昔からレジ打ちに興味があり、一度やってみたかったので夢を叶えてみた。店舗との行き帰りにひとり深夜徘徊散歩したのも楽しかった。あの頃は、バックヤードで身体を使って飲料のケースを上げ下ろしして品出し・陳列しているときに、いちばん「生きている」実感が湧いた。アルバイトがなかったら精神的に参っていただろうと思う。オンラインの就職活動には魅力を感じられなかったので、3年生の間は結局何もやらなかった(ツケは翌年に払った)。
当時も今もテレビは全く観ない(持ってない)し、SNSの論調ともある程度距離を置いてきた。ざっくりした感覚だけど、それらメディアに触れているのであろう世間の多数の人は「我慢して感染対策を頑張れば、新型コロナウイルスを封じ込んで、もとの生活を取り戻せる」と、根絶した天然痘みたいなイメージで考えているフシがあるようだった。それならば、風邪という名の「従来型コロナウイルス」はなぜ現になくなっていないのか? よく効く薬ができるか、人々がウイルスに慣れるかするまで、少なくとも数年は、この生活が続くだろうと、2020春の時点で胸の内では思っていた(周りには言わなかったけど)。期待しなければ失望もしない。
5月から、大学の講義がオンラインで始まった。あらゆるものがオンラインになって、今後もそれが続くだろうと思われたから、ちょっといいパソコンを買うことにした。元手には、海外旅行のための貯金を使った(どうせ当面は渡航できないだろうと踏んだ)。そのパソコンで立ち上げたホームページに、この文章を書いている。