学校でなぜ歌をうたうか


「みんなで歌う」ことの意味


はじめに

本稿では、ポピュラーな学校行事である「合唱コンクール」での個人的な体験を具体例として挙げながら、私の考える音楽の特徴について述べることにしたい。音楽を好む好まざるに関係なく、クラス全員がひとつの音楽を作り上げる合唱コンクール。この中に、以前から私は音楽の「ある特性」が表れていると考えてきた。

合唱・合唱コンクールについて

合唱コンクールには2種類ある。ひとつはコーラス部や合唱団が参加するもので、演奏が一定の水準のレベルをクリアしていることが前提となっていることから、こちらは演奏技術や芸術性が評価の中心となる。このレポートで取り上げようとしているのはもう一方、中学校や高校において、生徒全員参加の学校行事としてクラス対抗で行われるようなものである。 合唱コンクールは多くの学校で行われているようで、私自身も中学・高校で計6回経験した(うち4回はピアノ伴奏者、1回は指揮者で、毎日の練習の運営に深く関わっていた)。数多くの良い思い出もできたが、楽しいことばかりではなく、例えば、練習に参加しない人への対応、練習が思うように進まない焦り、本番が近いのに曲は完成には程遠いといった状況など、その当時は辛く苦しく思われたことも多かった。しかしそのぶん、皆でこれを乗り越えて、本番までになんとか曲を形にしてステージで歌いきれたときの感動には何物にも代えがたいものがある。また、他のクラスの演奏を聴くこともコンクール本番の楽しみの一つである。どのクラスもそれぞれ問題を抱えつつ、それを克服して一生懸命に歌う。歌の上手い下手は関係なく、みんなで声をあわせて歌う姿はとても感動的なものだった。 その上で、自分のクラスが賞を取ることができればなお良い。実際、放課後に部活動の時間を潰してまで熱心に練習に励むのは入賞という目標に向かって団結しているからである。私も表向きはクラスメイトをそのようにして鼓舞していたのだが、一方で、合唱コンクールの本質は、賞を取ることではなく、「みんなで歌う」ことにこそある、と常々考えてきた。技術や賞以前にある、「みんなで歌う」という行為自体が、大きな意味を持っているからである。こう思う背景には、かつて読んだある文章の影響がある。

小泉文夫「人はなぜ歌をうたうか」

ここで、民族音楽の研究者であった小泉文夫「人はなぜ歌をうたうか」を参考文献として取り上げたい。私達はごく当たり前のように、周りの人にあわせて歌をうたうことができる(しょっちゅう肩を組んで校歌を歌っている某大生は、特に合唱の能力に長けていると私は思う)。ところが、小泉によれば「みんなで歌う」ことができるのは、当たり前のことではないという。世界を見渡してみると、周りとあわせて歌うことのできない人々が存在するというのだ。その例として、本の中ではスリランカのヴェッダ族が挙げられている。彼らは周りとリズムを合わせることができないのだが、これには、共同作業をしなくとも生きていかれる(狩りにはいつもひとりで行き、行事や祭礼もない)部族の生活スタイルが影響しているのではないかと小泉は説く。一方でその逆、歌が上手な民族の例として挙げられているのが首狩り族である。台湾のブヌン族の場合は、首狩り(他の部族との抗争)へ行く前に合唱をする。その合唱が「ハモって」いれば首狩りに行くが、そうでない場合は行かない。首狩りは集団で行うものだが、狩る前に「ハモる」か否かが、命がけの首刈りの結果、つまり部族の存亡を占うものだと彼らは捉えているのだ。このほか、集団で息を合わせなければうまく行かないクジラ漁を生業としているアラスカのエスキモーも合唱が上手ということだった。小泉の調査からは、生きていくために集団行動・協調性が不可欠な部族は合唱が上手、各々が勝手気ままに生きていても生活が成り立つ部族は合唱が下手、それどころか、合唱ができないものさえいるという現象が見て取れる。

日本人はどうだろうか。音痴の人はいるにしても、周りと全くあわせて歌えないというヴェッダ族のような人は見たことがない。歴史的に見ても、日本人は農耕民族であり、協調性が求められる農作業を営んできた。その過程で田植え歌などの音楽も生まれていることからも、日本人の合唱との相性は良いと私は考える。 これらを踏まえ、レポートの主題である「音楽とはなにか」という問いに答えるならば、音楽とは「集団の協調性をはかるための尺度」と言えるのではないだろうか。

おわりに 学校でなぜ歌をうたうか

「みんなで歌う」ことは、決してすべての人にとって当然にできるものではなく、ある集団における歌の上手下手というのは、そのまま、その集団の協調性の強弱を表しているといっても過言ではないことが明らかになった。そうであるならば、合唱コンクールには、歌の完成度や演奏技術だけではなく、クラスの団結力を測っているという側面も十分にあるのではないか。だからこそ、学校は教育活動の一環としてクラス単位で歌をうたわせているのだろう。 私達の周りでは当たり前過ぎるために、ほとんど誰からも意識されずにいる「みんなで歌う」こと。そのことが持つ意味について思いを致してみることで、合唱コンクールの意義と魅力がまた違った形で見えてくるのではないかと思う。(2018年7月)



参考文献

小泉文夫(1984)『小泉文夫フィールドワーク 人はなぜ歌をうたうか』冬樹社、pp99-144



※筆者注
かなり前に、大学の芸術論の講義で、「音楽とはなにか」というテーマのもと執筆したレポートです(掲載にあたり一部加筆修正しています)。拙さと堅さが目立つ(今もいい文章が書けるわけではないけれど)上に、大した内容でもないのだけれど、当時は渾身作のつもりだった思い出のレポートなので、「雑稿」1本目に使わせてもらいます。