女子大の教育と「女性の地位向上」について

女子大に通っている妹の話から、「女性の地位向上」という言葉と、女子のリーダーシップ教育のあり方について考えてみた。

この春から、妹は地方の実家を離れて東京の女子大に通っている。妹は(私もだけれど)、高校まで全て男女共学の学校で学んできたため、男女別学の学習環境とは一体どのようなものか、想像もできない状態で入学の日を迎えたようだった。多忙な両親は上京する余裕がなく、まだ東京の地理に不慣れな妹を連れて、私が代わりに保護者役として入学式の会場の女子大キャンパスに行くことになった。多くの女子大は、部外者に対して厳しい入構規制を敷いているため、このような機会でもない限り、私のような人間がキャンパスに入ることはできない。そのような環境のせいか、大学構内は私の通う共学のキャンパスと比較するとやはり開放感に欠けているように感じられた。

キャンパス内の教室へ誘導され、入学式の中継映像を観た(保護者でも会場には入れなかった)。学長(女性。歴代学長10人のうち9人が女性)は、式辞のなかで、女性の地位向上の重要性を繰り返し説き、新入生には社会の中でリーダーシップを発揮できる女性となってくれることを期待する、と熱弁していた。女性リーダーの育成という目標は、管理職の女性比率が圧倒的に少ないという現代日本の問題点ともリンクしており理解できる。しかし、私はここで一つ疑問を持った。その目標達成ための学習を女性のみで行うことにはどのような意味があるのだろうか。戦前〜戦中の花嫁学校ではあるまいし、こういったことは男性とともに学んだほうが良いのでは、と思った。実社会の職場には男性がいるのだし、そこで男性と協調、あるいは競争しながら高い地位を勝ち取ることが求められているのが現状ではないのか。

先日妹に会ったときに、その疑問をぶつけてみた。妹は、女子大の教授から聞いたという、とある実験結果の話をしてくれた。それによると、テストで男性と女性を競わせると、男性は男性同士で競うときよりも強い競争心を女性に対して持ち、そのために女性は萎縮してしまう傾向があるらしい(男に言わせれば「女には負けられない」というところだろう。この講義でも取り上げられた「男性学」を思い起こさせるものである)。このことから、女性のみの環境のほうが、気兼ねなくノビノビと勉強ができる。また、男性がいない大学の中では、女性がその役割(男性が立ちがちなポジション)を担う必要が生じる。もし男子学生がいると、リーダー経験ができる機会は減ってしまうだろう、と言っていた。彼女は、女性しかいない環境をたいへん気に入っており、その効果も認めていた。

これらの理屈は、筋が通っているように思われる。女性だけで学ぶことで、女性が「男性的なもの」を身につけ、それによって男性と出世競争において張り合えるというわけだ。そして、そうした人々の活躍によって、管理職の男女不均等問題が表面的な解決をみるかもしれない。

一方で、学長が入学式で繰り返し発していた「女性の地位向上」という言葉に関連して、まだ釈然としないところは残る。男の方の地位が上であり、女は下という認識を前提とした発想であるが、その認識はどこから生まれるものなのだろうか。お金を稼いでいるほうが偉いのか。家事は下の立場の人間のするものなのか。こうした見方が果たして妥当なのか、今一度捉え直す必要があると考える。男は外で働き、女は家事をする、という役割分担から「男が上、女が下」という見方を導いてしまう世の中の人々の意識こそ、もっとも問題視されるべきものではないのか。

その上で、私は、男性と女性が歩み寄るような形で、男女平等社会を実現できないのか、とも思う。女性の社会進出ばかりが取り沙汰されているけれども、男性の「家庭進出」「社会撤退」も同程度に注目されて然るべきではないのか。往々にして「女性が被っている不利益」ばかり語られがちだけれども、これからを見据えると、男女格差の問題は決して女性だけの問題であってはならないと思う。男性側から女性のほうへ近づくような(「地位向上」に対応させれば「地位低下」だけれども、先述の通り、どちらが上下という考え方は改めなければならない)働きかけが増えていかない限り、男女平等に向けた様々な取り組みは、女性による一方的なものに終始してしまうのではないか、と憂慮している。(2019年7月)




※筆者注
雑稿2本目も、かつて大学で書いたレポートから。ジェンダー論の講義で、「身の回りで起こった出来事をもとにジェンダー論を展開せよ」みたいな課題だったと記憶している。今まででいちばん書いていて楽しかったレポートのひとつ。