沖縄日記

はじめに

3月中旬に友人と5泊6日で沖縄本島を旅してきました。修学旅行以来、およそ7年半ぶり2度目の沖縄でした。 概ね天気にも恵まれました。昼の気温は連日25度近くまで上がり、夜も18度くらいまでしか下がらないので、終始半袖で過ごせました。 国内47都道府県のうち、大学時代に唯一行けていなかったのが沖縄だったので、卒業を控えたこの時期に訪ねようと前々から決めており、安い航空券も早くから押さえていました。



3月17日(木)

東京→沖縄の移動日。5時前に起きて、引越しの荷造りと居室の片付けを急ピッチで進める。 本来は昨日から徹夜して終わらせる予定だったのだけど、やや大きな地震とそれに伴う停電でおじゃんになり、昨晩は諦めて寝た。 巨大本棚を粗大ゴミ置き場まで運ぶなどの重労働もなんとかこなして、昼前にリュックサックとカメラを担いで急ぎ足で羽田空港へ。 東京は快晴で、朝は結構冷え込んでいたものの、正午ごろになるとほどほど暖かくなっており、上着を持たずに家を出た。 14時離陸のソラシドエアSNA27便の搭乗口にギリギリで滑り込む。飛行機は満席で離陸。昼食を買って持ち込めるだけの余裕はなかった。 空きっ腹で機内食のスープ(ソラシドエアの「アゴゆずスープ」。とても美味しい)を啜ったり、 本(旅の予習として、打越正行著「ヤンキーと地元」)を読んだりしているうちに、 17時少し前に那覇空港に着陸。天気は曇り。南国らしく湿った生ぬるい風の吹く滑走路に降ろされて、早速汗ばむ。 冷房の効いたバスで空港ターミナルビルまで運ばれ、モノレール(ゆいレール)に乗り換えて那覇市中心部の美栄橋(みえばし)近くのホテルへ。そこで一足先に沖縄に着いている友人のKくんと合流したのが18時頃。 持ってきた半袖に着替えてから、とりあえず晩ごはんを、ということでステーキ(一応、沖縄名物)を食べに出る。 3月だけど夜もフツーに半袖で出歩ける。東京とはまるで気候が違う。とんでもなく遠いところに来たのだなあ…という実感が湧いてきた。ステーキは美味しかった。 ホテルへの帰りは寄り道をして、 スーパーで刺身(並んでいるのは聞いたことのない名前の魚ばかり。「シチューマチ」と「カタカシ」を購入、皮がついたままにされていて歯ごたえがあった)を、 コンビニで酒(泡盛コーヒーとオリオンビール)を買って、 部屋で飲み食いしていたが、お互い移動で疲れていたようで、22時ぐらいには寝た。



3月18日(金)

7時起床。夜中に警報級のひどい雨が降っていたようだが、明け方にはほぼ止んでいた。 2人してホテルの向かいの店で沖縄そば(1杯目)を啜ってから、チェックアウトして、 雨上がりの国際通りを沖縄県庁前まで歩いて予約していたレンタカー屋へ。2日かけて車で本島を一周しようということになった。 8時半から車を使えたのだが、10時開店の那覇市内の「かりゆしウェア」直売所に寄りたい(縫製工場の組合が運営していて、土産屋より安く購入できるため)という僕のわがままを聞き入れてくれたKくんの運転で、暫し那覇市内をドライブ。 漫湖(読み仮名は振らない)のほとりの公園を散歩したり、市内(与儀公園)の保存SL(九州から船で運んだらしい)を見に行くなどしながら時間を潰し、 無事にかりゆしウェアを手に入れて(定価¥7000ほどのものを¥4000強で買えた)、 国道58号(沖縄本島を南北に貫く幹線道路、通称「ゴーパチ」)を北上。 カーラジオでローカルFMを流してみたら、地元のおばさんによる方言(うちなーぐち)全開トークで、何も聞き取れず驚愕。 本物のうちなーぐちを聞くたびに、もはや外国語だよな…と思ってしまう。 11時過ぎにやや早めの昼食として、北中城村のヤギ料理店「南山」にて 「ヤギ汁」を食す。 ヤギ料理は初めて(これも沖縄名物)。美味しかったが、独特の獣臭さや脂の多さなど、なかなかクセが強かった。蓬の葉で味を整えているのもかなり独特だった。 その後は、嘉手納基地を見渡せる道の駅に寄り道して、離着陸する軍用機の写真を撮ろうと20分ほど粘るも、飛行機がやってくる気配がなく、そのうち小雨が降ってきたので退散。 (ちなみに、僕たちが滞在した5日間は総じて風が強めで天気の変化が激しく、晴れたり曇ったり小雨になったりと、1日の中でも目まぐるしく変わりました。春の南西諸島はいつもこんな感じなのでしょうか?)。 おやつ用に売店で陳列されていたサーターアンダギーを買おうとしたら、揚げたてのものを袋詰めして渡してもらえた。 嘉手納からは僕が運転席に座る。名護までは高速道路を使い、本島西岸の海岸線に沿ってひたすら北へ。沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬を目指す。 名護から先が予想以上に長くて、島の広さを体感。14時半に岬に到着。強烈な風が吹き荒れる中、本土復帰の記念碑などを見て歩く。 再び車に乗り、「ヤンバルクイナのロードキル多発地帯」を慎重に運転しながら(標識もオリジナル)、 最北端の集落である奥(おく)の「共同売店」でひと休み。共同売店には立ち寄ってみたかったので満足。 手作りの「ポーク玉子おにぎり」が美味しかった(←食べてばかりいる)。 再びKくんに運転を変わってもらい、本島東岸を南下。天気が回復してきたところで、普天間基地の移設先として海上の埋立工事が進められている名護市辺野古地区を車で通る。 工事反対派の基地・テントが立ち並ぶ一方で、キャンプシュワブに住む米兵向けの店舗も立ち並ぶ部落(あえて使用)の街並みを目に焼き付けてきた。 これから基地移設問題のニュースを聞くたびに、今日ここで見た景色を思い出すことになるだろう。 18時ごろ、今日の宿泊地である名護市街地のホテルに到着。 宿の裏手の大衆食堂でオリオンビールと泡盛をチビチビ飲みつつ、「豆腐よう」や「ぐるくんの唐揚げ」、「沖縄焼きそば」(沖縄そばの麺で作られた焼きそば)など、沖縄料理を堪能。 20時前に店を出て、自販機で買った琉球コーラを片手に海まで散歩。砂浜に寝転んで、波の音を聴きながらオリオン座を見上げる。気温は20度ほどで、半袖でちょうど心地よい。浜辺の道路脇の花壇ではヒマワリが満開だった。本当に3月とは思えない光景である。 コンビニでカップの泡盛を買ってホテルに戻りコーラの残りで割って飲んでいたら、お腹が痛くなってきた。昼のヤギの脂が原因と思われる(脂に弱い体質なので)(にもかかわらず二郎系に通い続けているが)。運転の疲れもあったので、23時前には寝た。



3月19日(土)

7時起床。早々とチェックアウト。 名護は北海道日本ハムファイターズのキャンプ地なのだが、今回泊まった宿はキャンプ期間中の選手宿舎になっているそうで、入口のロビーにグッズやサインがいっぱい飾られていた。 朝ごはんは名桜大学キャンパス近くの「A&W」という世界的ハンバーガーチェーン(「エンダー」と地元民は呼ぶらしい)で。日本国内では沖縄県にしかない。 エンダーの最大の特徴は、コーラの代わりに「ルートビア」という炭酸飲料がメニューにあって、 それを注文(¥200ほど)するとまず手元に1杯届くのだが、その後も何杯でもお代わりできる、つまり飲み放題になる(グラスが空いたら、お冷やと同じ要領で店員さんが注ぎにくることもある)ということ。 そのルートビア、風味が個性的で好き嫌いが分かれるらしい。恐る恐る初挑戦した。まあ、フツーに飲めたけれど(美味しさに感動した!ということはなかった)、湿布みたいな匂いがするので、絶対に受け付けない人もいるだろうな…という感想。 ハンバーガーのあとは、古宇利島に架かる橋を渡りに行ってから、南へと向かう。 湧水(金武大川・うっかがー)に寄ったり、 共同売店の100円そば(沖縄そば2杯目)を食べたり、草木に埋もれた戦争遺跡(うるま市天願橋)を見たりしていたらお昼時。 Kくんが強く所望したのでタコスを食べることに。具志川の「キングタコス」というボリュームたっぷりのテイクアウトの店で順番待ちをしていたら、 隣のお店から出てきたお年寄りの方から「タクシーを呼んでくれないか」と頼まれる(当然、すごい訛りだったので、3回ほど聞き返してしまった)など。昨日買ったかりゆしウェアを着ていたし、地元の人だと思われたのだろうか…? レンタカーの車内で、中身が溢れんばかりのタコスを食べるのはなかなか大変で、すっかり食べることに集中していたために写真を撮り忘れてしまったことが悔やまれる。 3連休初日だからか道も混雑し始めたので、一般道から高速道路を使って那覇方面へ。 普天間基地を見渡せることで知られる宜野湾市の嘉数高台(かかずこうだい)に寄って軽く写真を撮り、午後は本島南部へ。南城市の方から右回りに海岸沿いを走る。 斎場御嶽とニライカナイ橋は観光客で溢れていたのでスルー。橋の近くの知念城跡(琉球王朝時代の城跡)に寄ってみたら、静かで風情があって景色もよく、かなり良い穴場だった。 おやつに奥武島(おうのしま)で天ぷら(「天ぷら」は沖縄県民のソウルフードらしい。衣がしっとりふんわりしていて、本土の天ぷらとはちょっと違う)をつまみ、沖縄平和祈念資料館へ。 十数カ国の中高生向け歴史教科書の太平洋戦争について記述した部分とその翻訳をひとまとめに展示しているブースが最も印象に残った。関東のほうの修学旅行生が大挙して見にきており、あまり落ち着いてみられなかった。K君は「いずれ再訪したい」とのこと。 平和の礎も見て、摩文仁の丘を後にする。16時を過ぎて日が西に傾き始めた。最後はサトウキビ畑の畦道を通って、本島のほぼ最南端の喜屋武岬へ。岬を境に太平洋と東シナ海に分かれるということらしい。 20時までの返却ということだったが余裕をもって那覇市内へと向かう。レンタカー利用は今日までで、明日以降は主にバスで移動することになる。18時過ぎにに那覇の中心部まで戻ってこれたので、一足先に降ろしてもらい、 那覇バスターミナルにバスのフリー乗車券を買いに行く。 車にガソリンを入れて返却してくれたKくんと19時半に合流。今日から2泊お世話になる沖縄県庁近くのホテルに荷物を置いて、国際通りへ。 宮古島風の沖縄そば(宮古そば)の店「どらえもん」に入った(3杯目)。 ソーキが大きくて食べ応えがあった。 ホテルに戻り、洗濯機を回しつつ、今晩もスーパーの刺身をつまむ。今日は「ガーラ」と「スギ」という魚らしい。 どんな姿か想像もつかないけれど、美味しかったので問題なし。明日も早いので22時ぐらいには寝た。



3月20日(日)

6時に起床。今日は朝から特別なバスに乗りに行く。沖縄には「730バス」と呼ばれる、車齢40年を超えるとんでもなく古いバスが今も2台現役で走っている。 「730」とは沖縄が日本に復帰した6年後の1978年の7月30日のことを指しており、この日に、日本復帰後もアメリカ統治時代の名残で右側通行だった沖縄の車道が一斉に左側通行に切り替えられた。 乗用車は特に改造をしなくても(ハンドルの左右の問題はあるけれども)左側を走ることができるが、側面が左右で異なる(乗降口扉の有無)路線バスはそのままでは走れない。 結局、7月30日に沖縄を走るほぼ全ての路線バス(およそ千台)を新車で置き換えることになったのだが、この時に導入された車両がまだ2台生き残っており、毎週日曜限定で走っている。 一般的に、バスの寿命は20年ほどと言われるので、ここまで古いバスは本土を含めてもかなり珍しいと思われる(把握している限りでは、沖縄の2台と愛媛・北海道の各1台の計4台)。沖縄の歴史の「生き証人」として、末長く活躍を続けてほしいと思う。 730バスの運行ダイヤはあらかじめ決まっているので、その便を狙っていく。 1本目は朝7時過ぎに那覇バスターミナルを出る南城市役所行き。7時前にバスターミナルに向かったら、確かにロータリーにひときわ目を引く古いバスが待機していて大興奮(のりものだいすき20歳児)。 僕たち(眠そうなKくんも一緒)と他3名くらいの同業者(みんなバスファン)を乗せて、バスはエンジンを唸らせながら那覇から東へ向かう。 7時半過ぎに2人で途中の与那原で下車。戦前に存在した「沖縄県営鉄道」の与那原駅舎の遺構を見てから、今日もエンダーで朝ご飯にした。 Kくんはエンダーでしばらくくつろぐということで、もう一台の乗車&撮影をするべく、ひとりで与那原バス停へ戻る。 8時半の馬天(ばてん)営業所行きも730バス。 終点の営業所で降りて、許可をもらい、車庫内で撮りバス。テレビ番組の取材らしき人々とカメラも集まっており賑やかだった。 1時間ほど休んだ730号は、馬天から浦添に向かう便に充当される。起点から乗車し、与那原からKくんも乗り込んできた。首里周辺の坂の多い道路を轟音を上げながら走り抜け、11時前に浦添市街地にたどり着いた。 市役所近くで下車し、ちょうど開店するところだった地元の人気そば店「てだこそば」で 昼食(そば4杯目)。豚骨ベースであっさり目だったけれど、これはこれで美味しかった。 店の真向かいの浦添市立図書館入口の花が綺麗だった。 食後再びKくんとは分かれ、夜まで単独行動。バスで那覇の宿まで戻って荷物を置いてから、またバスに乗って空港方面へ。 郊外の「沖縄産業支援センター」という公共施設の玄関をくぐり、東京から持ってきた受験票で自席を確認し座る。「旅先でTOEICを受ける」ということをやってみた。 結局、全然解けなかったので…これから勉強したいと思います。この話はこれくらいということで… 試験終了後、バスに乗ってモノレールの赤嶺駅まで出て、「日本最南端の駅」の石碑を見てから那覇市街地へ戻る。 18時半に宿でKくんと合流(彼は結局昼寝していたらしい)。国際通りの店で、また泡盛をチビチビやりつつ、イラブチャー(真っ青な沖縄の魚)の刺身などをつまむ。 傍では、おそらく地元の、三線とギター&ピアノ(両方弾ける)の2人組がBEGINのカバー(「三線の花」とか「オジー自慢のオリオンビール」など)を生演奏していて、いい雰囲気だった。 ブルーシールアイスを食べながら22時前に宿へ戻り、疲れていたので先に寝た(Kくんはその後ひとりで深夜徘徊を楽しんだ模様)。



3月21日(月)

7時頃に起きて、8時前にKくんと出発。人気の「おにぎり屋」に向かったら大行列だったので、牧志公設市場2階食堂でゆし豆腐を食べて、 モノレールで首里城へ。中学校の修学旅行の際に記念写真を撮った首里城正殿は、本当に焼失してそこにはなかったのだけれど、着々と再建工事が進められていた。 一通り見て周ったところで、一足先に本土へ戻ることになっているKくんとお別れ。首里駅からモノレールで空港へ向かって行った。 僕も明日帰路に就くことになっており、最後の1日はひとりで旅を続ける。 ひとまず、手元に明日まで有効なバスの乗り放題券(昨日から3日間使用可。730バスもこれで乗っていた)があるので、これを活かすべく、首里から那覇までバスで下りる。 まだ元を取れるほどには乗っていないと思われたので、とりあえず遠くに行かなきゃ…と思いながら国際通りをフラフラしていたところに、ちょうど良く名護行きのバスが通りかかったので飛び乗る。 18日にレンタカーで通った国道58号を再び北上、1時間半ほど乗車し、本島中部の恩納村へ。名店として知られる「中村そば」に行き、 名物「アーサそば」(麺にアーサと呼ばれる海藻が練り込んである)を食す(沖縄そば5杯目)。 食べ終わると13時を過ぎていた。バス路線が多い本島中南部へと戻ることにする。 しかし、3連休の最終日で道が混んでいることも大きく影響しているのかもしれないが、凡そバスが時間通りに来ない。特に、国道58号のバスは、30分間隔のところ25分遅れるなどしている有様だったので、旅程を立てることは諦めて、成り行きに任せることにした。 嘉手納からコザ方面のバスに乗り継ぎ、最近暴動があった沖縄警察署の前を通り、イオンモール北中城(きたなかぐすく)へ。 子供たち(沖縄は本土と比べて明らかに子供の数が多いように思われました)に紛れてゲームセンターに入り、懸案だったCHUNITHM(アーケードの音楽ゲーム)の 全都道府県プレイ称号(「天下統一」)を入手してきました(これで、音ゲーをやる理由・モチベがほぼ消失してしまった感)。 16時半に、那覇方面へ向かう高速バスが出るということだったので乗り込むも、インターチェンジに入るまでが大渋滞だった。18時前に那覇に着き、最後のひと足掻きを、となって、夕陽を追いかけるように(18時でも十分明るい)南へ向かうバスを探したところ、 「琉球バス50番 東風平・具志頭・富里 経由 百名 行き」というバスがよさそうだったので何も考えずに乗り込む(読み仮名を振ると「こちんだ・ぐしちゃん・ふさと(経由)ひゃくな(行き)」です。内地人で全部正しく読めた人はすごい)。 郊外に向かうにつれて乗客は減っていき、具志頭を出たあたりからは僕ひとり。19時ごろ本島南岸に出て、高台の道路を走る車窓から、奥武島の向こうの水平線に沈む夕陽を眺めることができた。美しかった。 終点の百名に着くと、すぐに折り返しの那覇に戻る便が出るということで、乗車。 復路は現地のバスファン風の方も一緒で、現地のバス事情について色々お話を聞かせていただいたり、質問したりできたので面白かった。 21時前に那覇市街地に到着。今日の宿は「おもろまち地区」という、那覇近郊の米兵居住地の跡地を再開発した地域で、広い道路と緑地があってビルが整然と立ち並び、本土のような雰囲気を持つ場所であった。 弁当チェーンの「ほっともっと」で気になってた沖縄限定メニュー「麩ちゃんぷるー弁当」を購入して居室で食べたのだが、ものすごく美味しかった。 「これが本当に麩なのか?」という食べ応えのある食感で、あまりの衝撃に実家に戻ってから作り直してみたくらいだった(ちなみに、本土と沖縄では麩のつくりが違うことを知らず、それらしいものは作れたが、沖縄で得た感動は再現できなかった)。 コンビニで買った中身汁と、 ハチミツ入りの「首里(すい)ビール」も良かった。 沖縄は、街角のコンビニでも本土では見ないような商品が色々と並んでおり面白かった。 日付が変わる前に寝た。



3月22日(火)

6時起床。早めに荷物をまとめて、通勤ラッシュがひどくなる前に、一応「乗り鉄」の務めとして、沖縄のモノレール「ゆいレール」を終点まで往復。高台に登って景色が開けるポイントが多く、晴れた日に乗れたらさらに楽しかったのだろうけれど、あいにく天気は小雨。 小禄(おろく)駅近くの「上間弁当天ぷら店」で朝食を調達し、那覇空港のロビーでいただく。 天気も悪くなる一方だったので、モノレールの写真を撮ったりお土産(家族には泡盛の「White Tiger 3年」、ただし未成年の弟にはエンダーのルートビア缶)を購入したりして空港で時間を潰し、故郷の空港へと飛ぶ便に乗る。 離陸時の那覇の気温は23℃、着陸時の地元は7℃。天気が良いことだけが救いだった。上着は東京に置いてきたので、凍えながらバスと電車を乗り継いで2時間ほどかけて帰宅。



おわりに

忙しなく動き回る旅行ばかりしてきた身だったので、同じところに5泊6日も滞在していたら飽きてしまわないかという不安も少しあったのですが、実際は全くそんなことはなくて、まだまだ居たい、という気分にさせてくれる場所でした。 3年に一度くらいは遊びに行けたらいいな…とは思っていますがどうなるやら…